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「一流出版社から本を出版する学者でありながら、もう一方ではいまだに学術界からは認められていない知性」の思考地図

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『エマニュエル・トッドの思考地図』
エマニュエル・トッド 著 大野舞・訳
筑摩書房社 1500円

- 評者

大島由起子 インフォテクノスコンサルティング株式会社
Rosic人材・組織ソリューション開発室/
人材・組織システム研究室 管理者














概要

誰もがそんなことを考えていなかった時期にソビエトの崩壊を予測し、後にもリーマンショック、アラブの春、イギリスのEU離脱やトランプ大統領の登場を言い当てたことで有名な、フランスの歴史人口学者・エマニュエル・トッド氏が、自身の思考の全体像と本質を、インプットからアウトプットまで、順を追って隈なく語った一冊。

本書は、最初から日本市場にのみでの発売を前提としたもので、完全日本語オリジナルです。「フランス社会に属している人間(として)・・・、フランスで物事を語るとき、私はどのような思考枠組みがあり、どのような倫理観があるのかということをよく理解しています。ですから無意識であっても言葉を選んだりしています。ところが日本は・・・やはり私にとって外国です。だから自分の言っていることについて正当化する必要を感じないのです。そういう意味で私にとって、とても解放的な作業だったのです」というように、完全日本語オリジナルであることが、この本の内容に、普通なら生まれなかったようなユニークさを与えることになったと想像できます。

トッド氏は、同時代の、世界的に有名な学者を名指しして、「私がどうも納得できないのは、かなりの確率でそうなるだろうと始める前から誰もが思うことばかりを研究結果とするから」と、ばっさりと切り捨てます。また、「最も重要だと思うのは、間違えないことではなく、間違いを最初に見つけてそれを言うこと」という信念のもとに、「ポリティカル・コレクトネス」にも正面から切り込み、自己の思考地図を振り返る事例として、まさに現在進行形の事態、コロナウィルスの大流行を取り上げます。世界中で刻一刻と変化する事象について予測を発表することは、「外れたときにすぐわかる」とい大きなリスクを伴うわけですが、彼にとってはそのようなことはまったく関係ない。本書で一貫して貫かれる彼の信念が最後までぶれることがなく、彼の意見に賛同できるか否かを超えて、信頼できる書籍と言えるでしょう。

また、トッド氏自身が、「スイユやガリマールなどの(フランスの)一流出版社から本を出版する学者でありながら、もう一方ではいまだに学術界からは認められていない」と言うように、一般的な権威や常識というものにとらわれない考え方に触れることができる、興味深い一冊でもあります。

<目次>

日本の皆さんへ
序章   思考の出発点
1 入力  脳をデータバンク化せよ
2 対象  社会とは人間である
3 創造  着想は事実から生まれる
4 視点  ルーティンの外に出る
5 分析  現実をどう切る取るか
6 出力  書くことと話すこと
7 倫理  批判にどう対峙すか
8 未来  予測とは芸術的な行為である
ブックガイド

お勧めのポイント

本書を読み進めて最初に衝撃を受けたのは、トッド氏が、「哲学的な思考」を否定している文章でした。 「世界の名だたる哲学者たち、デカルト、カントなどは、私にとっては言葉遊びをしているだけなのです」、 「私は思考するために哲学を学ぶ必要はありませんでした。経済を考えるために経済学者はいらないといいうのと同様です。西洋の経済の問題は経済学者が出たことで始まったとすら、私は思っています」と。

フランス人であるトッド氏は、青年期まではフランスで教育を受けながら、最終的には英国のケンブリッジ大学で博士号を取得しており、自身でもイギリスの経験主義を基盤としていると明言しています。ただし、その経験主義ですら、「直観的な一般常識を優雅にまとめただけ」と突き放している。何やら不穏な、しかしどこか新しい世界を見せてくれるのではないかと、ワクワクもするスタートです。

トッド氏は、歴史人口学者です。研究のベースのひとつは人口統計学。人口統計の数字から、社会を読み解く学問です。「経済データと人口データがあった場合、私はつねに人口データを優先的に見ます。なぜならば、人口データの方が正確だからです。人口というのは生まれるものは必ず死ぬという絶対的な法則に縛られているので、偽造するのが難しいのです。」 実際に、氏がソビエト連邦の崩壊を予測したきっかけはある時期から乳幼児死亡率が高まっていることに気がついたことでした。それに、歴史学者としての知見・知識、ハンガリー旅行で感じとった奇妙な「普通さ」を掛け合わせて、当時は誰もが想像できなかった、ソ連崩壊を言い当てました。

常に、事実を直視し、歴史から学び、客観的態度で物事に対峙する。氏のそうした学問に対する真っすぐな態度は、時に大きな「炎上」を起こします。多くの人にとって「不都合な事実」をあぶりだしてしまうことがあるからです。その最たるものが、著書『シャルリは誰か?』。2015年、パリの『シャルリ・エブド』の本社にイスラム過激派テロリストが乱入し、編集長、風刺漫画家、コラムニスト、警察官ら合わせて12人を殺害するという事件が起きました。その事件に対して抗議デモが起こり、参加者は自らを「私はシャルリ」と表現します。その現象に対して、トッド氏は人口統計や地図を紐解きながら、そのデモの本質は言論の自由や民主主義を擁護するものではなく、自己欺瞞的で無意識に排外主義的である(=「私はシャルリ」の正体)と言い切るのです。デモ参加者はもちろん、多くの知識階層から大変なバッシングを受けることになります。そしかしれに対して、トッド氏はおそらくひどく傷つきながらも、数字に向き合って得た自身の分析と考察について、考えを翻すことはありませんでした。

本書を読みながら、ナチスの親衛隊員であり、ユダヤ人移送局長官だったアイヒマンの裁判を観察して、「悪は陳腐」と結論づけ、知識階層やユダヤ人コミュニティーから非難を受けた、哲学者ハンナ・アーレントを思い出しました。真摯な学者でありながら、その真摯さを貫きとおすがゆえに、自らが属するコミュニティーからはじき出される、その孤独。

このようなトッド氏が、50年にわたる知的生活の中でどのように思考してきたのか。そして、未来を現在進行形でどのように予測しているのか。思考の指南書ではあるものの、そのプロセスの理解だけに価値があるのではなく、自分の信念と社会常識や権威との間にズレが起きたとき、人としてどうあるべきなのかを考えるきっかけをくれる一冊にもなっています。

(2021年2月9日)

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