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登山界の偉業を徹底的に「下山」の視点から語ることで、その先に見えてくるもの

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『下山の哲学 登るために下る』 竹内洋岳 著
太郎次郎社エディタス 1800 円

- 評者

大島由起子 インフォテクノスコンサルティング株式会社
Rosic人材・組織ソリューション開発室/
人材・組織システム研究室 管理者














概要

本書は、日本人として初めて、ヒマラヤにある8000mを超える14の山の登頂に成功した登山家・竹内洋岳氏が、その達成の道のりを、「下山」にフォーカスして記録した、とてもユニークな一冊です。

登頂が困難な登山の話は、ほとんどの場合、登頂までのプロセスにスポットが当たります。山の頂に旗を立てたところがクライマックスで、大抵のストーリーはここで終わります。しかし、過酷な登山経験を重ねた竹内氏は、「登山をしていて、山頂がゴールだと思ったことがない」といいます。「大切なのは登頂することではなく、登頂して無事に帰ってくること」で、「頂上は地形的な最高地点だが、登山という行為のピークが必ずしも頂上であるとは限らない」と考えているからです。

登山は他のスポーツと異なって、基本的にリタイアすることができません。登ったら、どんなに苦しくても自分で下ってこなくてはならない。ですから、頂上までほんの数十メートルの地点まで来ていたとしても、<ここで登頂に挑戦したらベースキャンプまで下りきることができない>という状況であれば、潔く諦めることが求められます。下るという行為はそれほどに、登山というプロセスの中の重要な要素だということです。

そこで竹内氏は、これまでほとんど光を当ててこられなかった「下り」の視点から、ヒマラヤ8000m峰14座(山のこと)の登頂を語ることにしました。それが登山の本当の姿を伝えることだと思ったからです。14の山の登頂の話が成功順に描かれていきますが、登頂までの話は簡潔にまとめられているだけ。竹内氏が語りだすのは、登頂した後からのストーリーです。頂上まで行けずに敗退した登山についても取り上げられていて、"登頂成功の物語"では知ることのできなかった世界を垣間見せてくれます。

竹内氏は、10座目となるガッシャ―ブルムII峰への挑戦で雪崩に巻き込まれ、片肺をつぶし、肋骨や背骨を激しく損傷するという大けがをします。その後どのようにして、健常な体を持つ登山家にとっても難しい5つの山の登頂を成功させていくのか。以前のようには動かない体で、富士山よりさらに5000m前後も高い場所にたどり着き、無事に帰ってくる物語は、一読の価値があります。

そして、「登り」と「下り」が輪のようにつながることが登山である、次の山に挑戦するためには確実に下らなくてはならない、というシンプルな事実に触れることは、自身を振り返るきっかけになるでしょう。

<目次>

はじめに 
ヒマラヤ8000m峰14座
I  「役割」(大規模登山隊)から「愉しみ」(少数精鋭チーム)へ 
   1995年→2001年
II   クライマックスとしての下山  2003→2005
III  生還するために  2005→2007
IV  ヒマラヤへの復活 2008→2009
V   14サミット完全下山 2010→2012
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おわりに

お勧めのポイント

最終14座目、タウラギリの話を読み始めて、初めて「あ、以前『NHK特集』で見た人だ」と気がつきました。番組では、ヒマラヤ8000m峰14座全登頂のための最後の山の挑戦であることが語られていたはずですが、その部分はすっかり頭から抜け落ちていました。登頂後、キャンプに戻ってくるまでの壮絶な「戦い」の部分を読み始めて、初めて記憶がつながったのです。それほど、ドキュメンタリーでの「下り」の映像は衝撃的だったのです。

竹内氏は、このNHKの取材を受ける際に、以下の条件をつけました。
・登頂までで終わる番組にしないこと。
・登頂できなくても、登山中に事故で死んだとしても、番組にすること。

スポーツは勝つ試合ばかりではなく、負ける試合もある。登山というスポーツは下山して初めて完了するのだから、登頂成功という途中までしかみせないこと、もしくは登頂に失敗した姿を見せないことは、本当の意味で登山を語ることにはならない、という強い思いを感じます。そうした信念のもとで作られた番組を観た私は、登頂までのストーリーをほとんど覚えておらず、登頂後からキャンプに到着するまでの話を強烈に覚えていました。

世の中には、わかりやすい「成功物語」「成功者の物語」が溢れています。SNSなどでも、沢山の「最高に素敵な部分」が切り取られて発信されています。「いいね!」が獲得できるように、もしくは炎上してもいから話題になってアクセス数を増やすために、わかりやすく白黒をはっきりさせるような言説も増えているようです。そこでは、単純な判断を許さないような豊かな全体性が、どんどん居場所を失っていく息苦しさを感じます。

竹内氏の話は、ある意味そうした現代の流れの対極にあるように感じました。誰かの恣意的で一時的な意思や感情、価値判断で部分を切り取るのではなく、良いところも悪いところも、格好いいところも無様なところも、すべてひっくるめて物事と向き合おうというメッセージを、私は受け取りました。

おそらく、10人読んだら、10人がそれぞれに今の自分に合ったメッセージを受け取ることになる、そんな懐の深さを持った本だと思います。

登山に興味のない方も、食わず嫌いにならずに是非、手に取ってみてください。

(2021年10月5日)

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