第60回  逆さにすることで見えてくること

突然ですが、昨年末から、絵を習い始めました。

最近のワーカホリックぶりの私を見かねた(あきれた)連れ合いに、「まったく異なる脳の使い方をすることをしたら?」と勧められて、騙されたと思って挑戦してみることにしたのです。

最初のデッサンの課題は、イタリアワインのボトル。ご存じの方が多いと思いますが、下半分が丸みを帯びていて、ワラで包まれているものです。

最初目の前に置かれたときには、「えー、こんなの本当に描けるの?」と気持ちが引きました。ワラは微妙な重なり方をしているし、ボトルの口の透明の部分ってどうすればいいの?と。

第一回目、デッサンの基本的な書き方を簡単に教えてもらって、画用紙に向かいました。

「絶対無理!」と思いながらも、「ダメでも何かを失うわけでないし」と開き直って、言われた通り、目に見える通りに、一本一本のワラも描いてみることにしました。

とにかくじっとワラの形や重なり方をみながら、20本以上はあったワラの部分を書き終えて、ふと離れてみると、なんとなくそれなりの形になっている。「私、なかなかやるじゃない」「細部をきちっと観察していればそれなりの絵になるんだ、ふむふむ」などと、心の中で呟きながら第一回目を終了。

第二回目。前回書きかけのスケッチブックのページを開いてイーゼルに置くと。。。何ともバランスが悪い。一回目にどうして「なかなか」なんて思えたのか不思議なくらい、目の前にあるボトルとは異なる様子をしているのです。

少し距離を置いて、しばらく実際のボトルと自分のデッサンを見比べると、全体のバランスが微妙に崩れているのがわかりました。思い切って一部の線を消し、見えた通りの輪郭を取りなおして修正開始。しばらくしてやっと、目の前のボトルとかなり似た感じのものが画面上に現れてきました。そこで、前回、必死にかいたワラも新しい形に合
わせて描き直し。

やっと、なんとなく良い感じになってきたかな、と思った頃、先生がやってきて私のデッサンを見てくださいました。

「形ができてきましたね。ただ、歪みを見つめるために、画面を逆さまにしてみるという方法があるんですよ」と言いながら、ひょいっと、私のスケッチブックを上下にひっくり返しました。

すると、それまでまっすぐに立っているように見えていたボトルの上の部分が、斜めに歪んでいるのがすぐにわかりました。それも、結構曲がっている。上下がそのままのときには、まったく気がつきませんでした。

以前、オーストラリアに留学中に、一度、絵に挑戦したことがあります。(長続きしませんでした)

そのとき、友人が「Drawing on the right side of the Brain」という本を紹介してくれました。今から20年以上前に発行された本ですが、改訂されながら今でも読み継がれている、初心者に絵の描き方を指南する本です。

その中のエクササイズの一つで、絵を逆さまにして描く、というものがありました。

まず、課題の絵を通常の状態で眺めます。それは、腕を組んで椅子に座っている男性の絵なのですが、腕を組んだり足を組んだりしていて、初心者が簡単に書き写せるものではありません。

そのあと、絵を逆さまにして、書き写していく作業を行うのです。そのとき、「あ、ここは手だ」とか「ここは椅子」といった心の声を排除して、とにかく見えた通りに画面に線を描いていく。

すべての線を写し終わったところで、紙をひっくり返してみると、本当に不思議なことに、かなり「上手」に絵を写しとっているのです。(実際にそうでした)

これは、頭の中に形成されてしまった既成概念や思い込みを取り除くための訓練だそうです。絵を逆さにしてしまうことが、「自分には絶対無理」といった思い込みや、「手だ」「足だ」「椅子だ」と思った瞬間に頭に浮かんできてしまう「一般的な形」といったものから自由になるきっかけになる、ということです。

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日経新聞に、「領海侵犯」というタイトルのコラムがあります。毎週月曜日に掲載されています。

これは、その分野では必ずしも当事者ではない人が、敢えて少し異なった視点から意見を語る、というもの。しばしば、本当に「目からウロコ」といった意見をおっしゃる方がいて、毎週楽しみしています。

これは、きっと、世の中の常識や当たり前という事象を、ひょいっと、ひっくり返していることなんだろう、と思います。だから、新しい発見があって、刺激を受けるのだろうと。

また、最近読んで、非常に印象的だった『獄中記』(佐藤優・著)の中で、佐藤氏が「学理的反省者」という言葉を何度も使っていました。

佐藤氏は、ご存じのように、鈴木宗夫代議士とともに、ロシア外交関連で、背任罪に問われた人物(2009年に有罪確定)。公判中、一貫して、自分は背任行為を一切していない、これは国策捜査だと主張します。

そして、実際の法定戦略としては、無罪を勝ち取るために戦うというよりも、この状況が何故国策捜査の対象になったのか、時代の流れの中でその意義を明確にし、それを世間に知らしめることに主眼を置くです。

その戦略を外れないために、「学理的反省者」という言葉を何度も自分自身に言い聞かせます。それは、「ヘーゲルは物事をみるときに、「当事者の立場から」と「学理的反
省者の立場から」を分けて、同じ出来事が当事者にとってはこう見えるのだが、われわれ(学理的反省者として物事をながめている著者とこの本を読んでいる読者)にとっては別に見えるという形で論議を発展させていく。」

と言う考え方からきているもの。

個人の罪の有無だけを考えていたら、大きな構造を見落としてしまう。結局は、外務省を辞任することなく(=外務省役人として)無罪を主張し続け、2009年の有罪確定で失職をすることになります。

なぜ、この本に強烈に引きこまれたのか。彼の視点の置き方に秘密があったと思います。

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などと、下手くそな絵と格闘するなかで、それまで漠然と感じていたことが、実感を持って感じられました。

「まったく違う脳の使い方」に挑戦してみるもの悪くないようです。

結局は、いつもの問題意識に戻ってきたとしても、それはらせん階段を上がった結果のように、少しだけ、見える風景が変わるようです。

2010年は、こんな風に、視点・視座というものに意識的に活動したいと思います。

今回参考にさせていただいた書籍

『New Drawing on the right side of the Brain』 Betty Edwards・著 Tarcher (邦題: 『脳の右側で書け』) 

『獄中記』 佐藤優・著 岩波現代文庫

(2010年1月15日)

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