経営者に聞く

第2回 人事制度を使って会社をコントロールするなどと思わないこと

第2回 人事制度を使って会社をコントロールするなどと思わないこと

株式会社ルネサンス 代表取締役会長 斎藤敏一氏

今回は、スポーツクラブを運営する株式会社ルネサンスの斎藤会長にお話を伺います。斎藤会長は技術者として入社しながら、自ら手を上げてインドアテニススクール運営のビジネスを起業、以来会社を成長させ続けてきた経営者です。起業にいたる経緯、後継者へのバトンタッチ、女性活用、人事部への提言などを伺いました。


斎藤敏一氏  プロフィール

1967年京都大学工学部卒業、大日本インキ化学工業株式会社(現・DIC株式会社)入社。1967年から2年間スイス連邦工業大学留学。1969年帰国後、研究所、海外事業部を経て、1979年企業内ベンチャー事業として健康スポーツ事業を企画。株式会社ディッククリエーション(2003年株式会社ルネサンスに社名変更)を設立して出向、後に転籍。1992年6月に代表取締役社長に就任。2008年4月より代表取締役会長。公益社団法人経済同友会幹事、公益社団法人スポーツ健康産業団体連合会会長、厚生労働省・健やか生活習慣国民運動実行委員会委員長などを歴任している。


技術者として2年間のスイス留学が社会人のスタート

― 斎藤会長は、もともと、技術者として大日本インキ化学工業株式会社(現DIC株式会社)に入社されたと聞いています。そのような会長が、フィットネスクラブの経営者になるまでの経緯を教えていただけますか?

話は大学4年生のときまで遡ります。卒業を前にして、卒業論文を指導していただいていたスイス人の研究者から、スイス連邦工業大学への2年間の奨学金付き留学を進めていただきました。スイス連邦工業大学と言えば、アインシュタインを始めとして、20数名のノーベル賞受賞者を輩出している超有名大学です。そこに奨学金付きで2年も留学できるなどということは、研究者にとって夢のような話でした。

ただ、研究生としての留学でしたから、帰国してから日本企業に入社すると、単なる学部卒扱いになってします。それではせっかくの2年がキャリアに活きない。そこで、入社してからすぐに2年間の留学を認めてくれる企業を探すことにしました。その条件をもって大手化学企業などの門をたたきましたが、そんな虫のいい話を聞いてくれるところはなかなかありません。そんな中、当時はまだまだ規模の小さかった大日本インキ化学工業を訪問しました。

当時の大日本インキ化学工業では、入社した技術者を2年間国内大学院に留学させる制度があったのです。実は、面接時にはスイス連邦工業大学への留学が決まっていたことは伏せていました。合格が決まってから、「国内留学制度を、海外留学に適用してほしい」と直談判したのです。

― それですんなりと認められたのですか?

さすがに、すんなりというわけにはいきませんでした。その件については、社長が直接面接してくれました。とにかく自分の思いを包み隠さず話したことが功を奏したようで、会社での海外留学生第一号となりました。入社後、2週間の新人研修を受けたあと、すぐにスイスへと出発しました。

― ここまでのお話を伺うと、研究者としての成功が約束された社会人生活のスタートではないですか?それがどうして、社内起業、しかもフィットネス分野だったのでしょうか。

スイス連邦工業大学での私の扱いは、学生ではなく共同研究者でした。ですから、論文提出のプレッシャーも少なく、研究生活以外は比較的自由時間が取ることができました。そこでもともと好きだった絵画のクラスに参加したり、大学の社交ダンスパーティーに参加したりしました。

― 社交ダンスですか?

大学時代は社交ダンス部に所属していたんですよ。

― それが、活きたわけですね。

図らずもそうなりましたね。それに、緯度の高いスイスは昼間が長く、人々は夕食を済ませた夜9時過ぎから着飾って街に繰り出し、オペラやコンサート、劇、映画を楽しむのです。仕事だけに縛られず、教養と遊びの時間を大事にする文化が根づいていました。最初はカルチャーショックを受けましたが、すぐに馴染み、2年間、研究生活とともに、そうした生活を十分に満喫しました。

イタリア・フィレンツェでの出会いが「ルネサンス」の原点

― そのままスイスに残りたいというお気持ちはなかったのですか?

共同研究をしていた教授から、博士コースへの進学は進められました。それを受けて、大学教授になる道もなかったわけではありません。しかし、やはりそれは道義的にできませんでした。

― では、2年が経って、日本に戻り、会社員生活を始められたわけですね。

帰国後は、埼玉県浦和市(現・さいたま市)にある中央研究所に配属になりました。研究所とはいえ、高度成長期の多くの会社と同様、平日は毎日3〜4時間の残業があり、土日出勤も珍しくありませんでした。また、当時(1969年)は、演劇やコンサートといった文化的なものは東京に集中していた時代です。浦和から出かけていくとなると大変時間がかかってしまうため、そうしたものに触れる機会を持つことが非常に困難でした。正直、こうした生活が苦痛でしかたありませんでした。

― そこで何か活動を始められたのですか?

実際に活動を始めたのは、浦和の研究所から市原(千葉県)の石油化学技術部に異動してからです。この部は市原工場の中にあり、研究所と比べて社員数が多く活気がありました。そこでまず始めたのが当時問題となりつつあった公害についての勉強会です。その後、勉強ばかりしていてもつまらないので、落語同好会、そしてテニスサークルを立ち上げました。これが社内起業の出発点になります。その後、武者小路実篤の「新しき村」を真似て、「大戸ルネサンス村」という大規模日曜農園なども立ち上げました。

― そこですでに「ルネサンス」という言葉が使われているのですね。なぜ、ルネサンスだったのですか?

スイス留学時代にイタリア・フィレンツェ出身の音楽家と親しくなりました。スイスでの最初の冬休みに、彼の実家に遊びに行ったのです。そこで、700年近く前の風景を残す街並みを歩き、様々な芸術作品に触れました。中でも、ウフィツィ美術館で見た3巨匠の作品が衝撃的でした。レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロです。彼らはひとつの芸術、学問領域に留まることなく、大局的・客観的な視点から人間や自然の本質に迫っています。そうした精神が文明・文化を発展させてきたのを強く感じました。そのときから、一科学技術者の生き方に安住し満足してはいけない、と強く思うようになり、「ルネサンス」(人間性の回復・再生)が生涯のテーマとなったのです。勉強会、落語同好会、テニスサークルも、自分の中では一連の「ルネサンス運動」でした。大戸村は、そうした活動のひとつの到達点と思えたので、初めて「ルネサンス」という言葉を明示的に使ったのです。

― そこから一気にフィットネス事業の立ち上げに取りかかられたのですか?

実は、そうした活動の延長線上で、会社とは関係なく、カルチャーセンターの実質的な経営を始めていました。厳密に言えば就業規則違反だったのですが。それを社内ベンチャーとして発展させられないかと考えるようになりました。そんな折、縁があって実力のあるテニスコーチとの出会いがあり、当時人気が出てきていたテニススクールを事業化することを考えるようになったのです。「教える」ということでカルチャースクールとの親和性も高く、将来的には統合していくこともできるだろうという思いもありました。そこで、テニススクールについて徹底的に調べ、インドアテニススクールの起業を決意しました。

― 当時、社員が起案して新規事業を立ち上げるといった制度はあったのですか?

決まった制度はありませんでした。しかし、DICの経営の歴史は、多角化の歴史でもありました。ただし、どんなものにでも手を出したというわけではありません。必ず既存事業とのシナジーがあることが条件です。そこで、インドアテニスコートやテニスシューズに使われるウレタン樹脂に注目し、インドアテニススクールを「ウレタン樹脂の販売促進」と位置付けて企画書を作成することにしたのです。それは正直こじつけに近いところもありましたし、実際DICの文化事業参入が本当の意義だったわけですが、そんなことを大上段から論じても企画は通らないとわかっていました。ですから、あくまで自社の既存事業との関連付けを前面にして提案を行ったのです。

― その作戦が成功して生まれたのが、「ルネサンス・テニススクール幕張」ですね。

組織のステージにあったマネジメント実現のために社長の座を継承

― さて、斎藤会長は、1992年にご自身が社内ベンチャーとして立ち上げた企業の社長となり、16年間その地位におられました。その間、売上高3億円程度だったビジネスを300億円近くにし、上場も果たしました。しかし、2008年、まだまだ続けてもおかしくないご年齢(64歳)で、社長交代をされました。そして、その後の経営もうまく継承されています。「後継者選抜・育成」に悩む企業も少なくないと聞いていますので、そのあたりの観点から社長交代のお話を伺わせてください。

東証一部上場した2006年、弊社の売上高経常利益率は8.6%となりました。この数字は業界第一位でした。それに気をよくして、売上高経常利益率10%という目標を掲げたのです。そうすると、社内で設備投資を押さえるとか、人材育成費用を削るなどといったことが起こるようになってきた。こうしたことの影響は直ぐには出ませんが、徐々にボディーブローのように効いてきて、実際に利益が下がってきてしまいました。

当時の会社の規模は、従業員が数百人、インストラクターが2000人くらい、アルバイトを含めると6000人という規模になっていました。しかし、マネジメントの考え方ややり方は、ルネサンスを3人の仲間で創業したときからほとんど変わっていませんでした。実際に利益が下がったのを知ったとき、規模に見合ったマネジメントが必要だということにはっきりと気がつかされました。

当時すでに私自身の経済人としての社外活動が増えていたこと、何より、新しいことを考え立ち上げることには興味があっても、一度立ち上げたものを組織化してマネジメントしていくことには興味が持てなかったこともあり、段階的に次の世代にバトンを渡していくことを決意したのです。

社内から後継者を出したいと考えていましたが、人材はいるもののまだ少し経験不足と言う状態でしたので、DICと相談して、3年間ブリッジングができる人材を送り込んでもらうことにしました。それが、私の次に社長になった、唐木です。彼は三菱銀行(旧)で取締役まで経験したあと、他社の社長などを経て、DICに入社した人物です。大きくなった組織のマネジメント体制を整えていくには最適は人材でした。ちなみに、彼は私と話をして、「こんなにマネジメントに興味を示さない社長は初めてみました」と言っていました(笑)

唐木の就任中3年の間に後継者として白羽の矢を立てたのが、現社長の吉田です。彼は、スポーツクラブ業界最大手である株式会社ピープル(現・株式会社コナミスポーツ&ライフ)に新卒で入社した人物で、同社で専務執行役員まで勤めましたが、縁あって弊社に転職してきました。新卒でフィットネス業界に入って、転職後ではありますが、社長まで上り詰めたのは彼が業界で初めてです。スイミングのコーチも経験しているし、支配人もやっている。営業部長、人事部長も歴任している。フィットネス業界を身を持って知っている人物です。そして、下から慕われる「兄貴」的なキャラクターを持っている。唐木が、3年かけて組織化した会社をバトンタッチするには最適な人材だと考えました。

― 斎藤会長が新しい発想とバイタリティで拡大させたビジネスを、銀行出身である唐木前社長が組織として整え上げ、業界を知りつくした吉田社長が引き継ぐ。その後ろで、斎藤会長が、経済同友会や業界団体をはじめとする公的活動を通じて、業界全体の盛り上がりを支える。非常にスムーズな経営移行ができたという印象です。

今振り返ると、ビジネスの時期やステージ、その規模によって、必要とされる人材、組織というのがあるというのが実感です。それを冷静に判断して決断し、実行することが重要だと思います。

優秀な女性が役員になることは、当たり前

― ルネサンスでは、女性経営者が育っていると伺っています。

はい、社内取締役に一人、執行役員に一人います。取締役専務執行役員の堀田は、ルネサンス創業期から一緒にやってきた、いわばたたき上げです。もともと三井不動産で秘書室勤務をしていて、結婚と同時に寿退社。専業主婦になって2,3年経ったとき、創業したばかりのルネサンスに応募してきたのです。彼女は、今や、経済同友会の人材関係の委員会の副委員長も務めています。

執行役員の望月は、業界の草分け的存在であるドゥスポーツのトレーナー出身です。今も、週1本ではありますが、アクアのインストラクターを続けています。自社だけではなく、業界のインストラクターのリーダーとして活躍しています。

― 女性管理職を増やすために苦労している企業は少なくありません。そこには、やはり男性社会の習慣や、女性を見る目という壁があると感じています。誤解を恐れずに言えば、「元専業主婦」とか、「インストラクター出身」という経歴がマイナスと捉えられるような文化を持っている会社もあると思います。そんななか、ルネサンスがうまくいっている理由はどこにあるのでしょうか?

もちろん、彼女たちに実力があるからというのが大前提ですが、私自身、女性が働くということにまったく偏見や抵抗がないというか、当たり前だと思っているんですよ。しかも、私たちのお客様の半分、従業員の半分近くは女性です。そこに偏見を持ったり、ガラスの天井を作ってしまうなんてナンセンス以外の何ものでもありません。

― 会長の年代の男性がそうした感覚をお持ちなのは、決して一般的ではないように思いますが。

これは私の妻のおかげなんですよ(笑)。彼女は看護短大及び助産婦学校を出た看護師・助産師で、結婚後も基本的にずっと働き続けました。今は親の介護のこともありリタイアしましたが、最後は船橋市役所で健康センターの所長まで務めました。子供を4人育てながらです。もちろん、私も子育てを手伝いました。子供が小さい頃は、朝は私が保育園に送りにいって、夜は家内が迎えにいくといった感じでした。

ルネサンスは社内起業としてスタートしましたが、もし失敗したら、DICに戻る気はありませんでした。それくらいの覚悟を持っていましたし、リスクを背負ってビジネスを展開させてきました。それでも駄目だったときは、一旦家庭に入って、充電して再出発をしようと。こう考えられたのは家内が働いていたからです。結果的にはそうならなかったので良かったですが(笑)。

そういう環境で生きてきましたから、弊社で働く女性が優秀で、その結果役員になるということに、感情的な面も含めてまったく違和感を覚えません。それ以下の管理職にも女性は多いですよ。

― トップの意識というか、肌感覚に近いものが想像以上に大事なのかもしれません。

そう、やっぱり本気で変えていこうとおもったらトップの姿勢が大事でしょうしょうね。

人事制度を使って会社をコントロールするなどと思わないこと

― 若い世代の方々に対してのアドバイスをいただけますでしょうか?

アドバイスと言われても・・・私は基本的に放任主義なんですよ。自分の4人の子供たちに対してもそうでした。教育にしても自己啓発にしても、自らやる気にならなければ、まったく身につかないですから。ただ、敢えて言えば、海外に行くこと、でしょうか。1週間とか2週間ではなく、できるだけ長期間外国で過ごしてみることです。できれば1年くらいは行った方がいい。そこでは、それまでにはしたことがなかったような苦労をするでしょう。そうするなかで、冷静に日本を見ることができますし、自分の立ち位置も見えてきます。急がば回れで、そうした経験があれば1年のギャップなんてあっという間に取り戻せます。

― では、最後に企業の人事部で働く方にアドバイスをお願いします。

人事の制度をきちっと盤石にすることに腐心するのではなく、まずは会社の目指すものを柱として立ててぶれないようにする。それができたら、後は従業員が活き活きと働けるように考えていくことです。

吉田(社長)は今、ES(エンプロイー・サティスファクション)ではなく、EIS(エンプロイー・インプレッション&サティスファクション)というメッセージを発信しています。従業員満足を超えた、感動が必要だと。従業員が満足し、感動していれば、それが必ずお客様に伝わると。これが、弊社での「柱」ということになります。

弊社は、GPTWの「働きがいのある会社」ランキングの大企業版で25位に選ばれ、2013年1月、「日経ビジネス」で発表されました。それは、こうした考え方がしっかりと根付いてきたからだと思っています。

もし、人事という役割が回ってきたら、制度を使って会社をコントロールしようなどと思わないことです。柱がしっかりしていれば、制度は自ずとできてきます。それよりも、問題があると思うなら、社長の頭の中を変えることを考えなさい、と言いたいですね。その結果は、会社が素晴らしく良くなるか、あなたが職を失うか(笑)。「そんなリスクを取るなんて」と思うかもしれませんが、そこまでやって辞めざるを得なくなるような会社なら、早く辞めてしまった方がいいんですよ。

従業員に対しては、軸をぶらさず。権力のある人事部ではなく、好かれる人事部に。改革をしたいなら社長の頭の中を変えましょう。

― 今日は貴重なお話、どうもありがとうございました。


斎藤会長のビジネス人生の詳しいストーリーは、『遊びをせんとや生まれけむ スポーツクラブルネサンス 創業会長 斎藤敏一の挑戦』を是非ご一読ください。
『遊びをせんとや生まれけむ スポーツクラブルネサンス 創業会長 斎藤敏一の挑戦』


取材・文 大島由起子(当研究室管理人)/取材協力:楠田祐(戦略的人材マネジメント研究所)

(2013年5月)

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