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第154回 『ハンギングロック』を知っていることの意味

『ピクニック・ハンギング・ロック』という、オーストラリアが舞台の小説を読んでいます。1975年には映画化され、オーストラリアでは今でも語り継がれる作品となっています。

私自身、オーストラリアに留学した際には、「代表的なオーストラリア映画だから、見てみるべき」と何人もの友人から勧められ、観賞しました。その原作が、昨年末初めて邦訳されたということを知って、手に取ったという次第です。

これを読んでいる方で、「ハンギングロック」と聞いて、どこにあって、どんな場所かを知っていて、その姿を思い浮かべることができる方は少ないのではないでしょうか。映画を見ていれば別ですが、オーストラリアのビクトリア州に訪れたとしても、観光したい場所として一般的なトップ10に入る場所ではないからです。

私は実際にハンギングロックに登ったことがあります。その周辺の町や山に訪れたことも何度もあります。ですから、時代が大きく違ってはいますが、ハンギングロック、マセドン山、ウッドエンド、赤いインコといった言葉を目にすると、生き生きとした記憶がよみがえってきます。

懐かしいなあと思って読み進んでいく中で、もし、ハンギングロックなんて初めて聞く、ビクトリア州はおろかオーストラリアにも行ったことがない、という人がこの小説を読んだとしたら、私の読書体験とはまったく異なるものになるんだろう、ということに気がつきました。

経験・記憶がある私の方が確実に深い読書体験ができるという話ではありません。私が感じたのは真逆です。私は「知っている」が故に、その範囲で物語を楽しんでいます。地名や独特な言葉が出てくるたびに、ストーリーを離れて「懐かしい」という気持ちも湧きあがってきます。

確かに、ハンギングロックを遠くから見たらどんな印象なのか、実際に登ってみると岩がどんな風に迫ってくるように感じるのかなど、具体的にイメージできますから、作者に近い感覚を持てるでしょう。

しかし、同時に、下手に「今」を知っているから、そのイメージが時代を遡る足かせになっているかもしれません。また、そうした場所をまったく知らない人が、自らの想像の力をフルに発をして描き出す世界から湧き出てくる、思いもしない「何か」を、私は恐らく得ることが難しくなっているのです。

どちらが良い悪いではありません。知識や経験があるからこそ、やっと到達できることができることが沢山あります。一方で、純粋に何も知らずに向かい合ったからこそ、感じる世界、気づける事柄があるというのも事実でしょう。大事なのは、両方のベクトルが、自らの中に共存していること、そして、経験の多少だけでそのアウトプットを機械的に評価することに潜む落とし穴、そうしたことに自覚的であることなのだと思います。

否応なく年を重ねて行くなかで、過去の経験をいつくしみながらも、新しい経験をすることに積極的でいたい。同時に、若い人たちや新しい挑戦をしている人たちの感性や視点にオープンでいたい、と思いました。

ともあれ、また、もう一度映画も見てみようと考えています。


『ピクニック・アット・ハンギングロック』創元推理文庫


(2019年2月5日)

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